無視する
これは世の中が乱れて、盗賊が横行したといわれる鎌倉時代の末期か、戦国時代の話だろう。捕えられた牢屋の中で盗賊同士が、それぞれの身の上話をしているうちに、中の一人が「おれはこれまでに一度だけ大変恐ろしい目に会ったことがある」と話しはじめた。
彼がある夜忍び込んだ寺の奥に進んで行くと、そこに僧が一人、机に向って静かに書物を読んでいる。背後から近づいた盗賊が、抜き身を僧の頬に押し当てて「金を出せ」と言うと、その僧はそのまま振向きもせずに物静かな口調で、「金ならそこにある。勝手に持って行くがよかろう」と言う。僧のあまりの冷静さに、盗賊があわてて傍らの財布をつかんで部屋を出た途端、その僧がそのまま姿勢で「部屋を出るときは後ろを閉めろ!」と大喝した。盗賊は「一瞬冷水を浴びせられたよう心地がして、芯から恐ろしかった」という。
自分にとっていま大事なこととそうでないこととを見分けて、そうでないことを「無視する(またはそれにかかわり過ぎない、気を遣い過ぎない)」ことの大切さを知る人は少ない。この僧にとっては、有り金を盗賊に与えるより読書に没入することが大切だったと見える。
私たちは何か新しいことを始める時、それが仕事、行事、試験勉強、旅行、サークルの仲間作りなどのようなことでも、それに対する大きな期待と共に、得体の知れない不安や怖れにとらわれることが多い。これは誰にとっても自然なことだ。しかしあまりそれにとらわれ過ぎて、それに押しつぶされないように用心が要る。何かを始めるときや着手するときに、大局を見てそれ以外のことに束縛されない生活態度を大切にしたい。誰もが得体の知れない不安や怖れに自然にとらわれるとすれば、その不安や怖れを自分の頭からとり除くためには、「無視」するくらいの強い気持が要る。
それでは一体何を無視するのかといえば、自分がこれからしようとすることがつまずきはしないか、うまく行かないのではないか、不成功に終るのではないかなどの不幸な結果に対する怖れにかかわり過ぎないで無視するのである。繰り返して言うが、得体の知れない不安や怖れにとらわれることは誰にとっても自然なことだ。しかし大切なことに注意を払って用心するのと、怖れるのとは違う。
近い例に、2005年7月7日に一連の爆弾事件があった直後のロンドン市民の反応がある。彼らの反応は概して「今ここで我々が右往左往するとテロリストの思い通りになる。我々に大切なのは用心深く、これまでどおりの生活を続けることだ」と言うものだった。これは半世紀以上前の第二次世界大戦中のナチス空軍によるロンドンの猛爆下で、宰相ウィンストン・チャーチルが国民に繰返し呼びかけたことと同じだから、ある意味でイギリス国民の価値観なのかも知れない。
怖れれば不幸は向うからやってくる。あまりにも怖れた結果、何よりも自分が落着かないで、勉強の結果が出ない、旅が楽しめない、仕事がうまく行かないなど、肝心のことが中途半端にしかできない。良い結果を期待せずに悪いことばかり起るように考えれば、悪いことの連鎖反応が起る。
また、不幸にして困ったことが起ったときでも、あまり大騒ぎしないこともこうした生活態度の一部に入る。ものごとを怖れてばかりでは、不幸に狙われる。周りからいじめられる人は、ふだんからびくびくしていて、ちょっとしたことに大騒ぎする人に多い、とはよく耳にすることだ。
それではどのようにすれば、考えなくてもよい不必要なことを見分けて、それを無視できるだろう?それは結局、今自分がこれから始めることの目的をはっきりさせることだ。