非難を受ける
江戸時代の末のことです。ある大名の家中で2人の者が江戸留守居役を勤めていました。当時その留守居役所にはこの下に2名、留守居下役の老人と留守居物書の若者とがいました。あるとき留守居役の一人が公用の書信を出すために、若い物書きを呼んで原稿を書かせたのですが気に入りません。まずい文章と手跡とを非難してやり直しを命じたのですが、再び出てきた案も気に入らなかった留守居役は、その若者に向って「こんなことでは御用が務まらぬ」と強く非難しました。若者は追い詰められて首を垂れました。一身の恥辱、家族の悲嘆が頭の中をかけ巡ったということです。
この話はそこにもう1人の留守居役が登庁して、この若者を危地から救うことで終るのですが、これは非難される側の例として出しました。こうしたことは今日でも、私たちの周りではよく見かけます。世の中の人間関係にはいろいろな種類がありますが、上の例はそのひとつです。われわれが非難を受けた時、それを深刻に受取るのは、おおむねそれが家族以外の他人からのものの場合です。<ふだん親しいと思っていた家族や友達から深刻な非難を受けて驚くこともありますが、今日ここでは取上げません>。
人は非難されると非難されたそのことに驚いて、まず相手が正しいと思うようです。そしてそれが過ぎると、多くの場合その非難は当っていないと非難した相手に腹を立て、反発したり無視したりします。たしかに、相手の非難を受け止めて相手が正しいかもしれないと謙虚になるのは非難した人に対する礼儀でしょう。これはむつかしいことですが、相手だってこちらを困らせるために非難しているのではないと考えれば、非難されたことが原因で、その相手との関係を悪くするのはあなたにとって意味がありません。
どんな小さな非難も謙虚に真剣に受け止めることは確かに大切です。しかしあなたのためにはただそこまでにしたいものです。もちろん相手が単にこちらを責めようとして非難しているなら、そうしたものは無視したほうがよいでしょう。繰返しますが、非難も正当なものなら受け入れるのが礼儀ですし、この場合相手の口のきき方や、言葉遣いなどを気にかける必要はあまりありません。
相手の言うことを謙虚に真剣に受け止めることは非難に屈することではありません。非難に屈すると、場合によっては相手に卑屈な気持を持ちかねませんから用心が必要です。
非難を受けたら、それを受け入れて自分がそれを直すことができるのか、つまりもともと「できない」ことを責められているのか、(できたのに)「やらない」ことを責められているのかを考えることです。つまり、非難されたら相手がこちらをどう理解して「非難して」いるのかを、自分なりに確かめることが必要でしょう。
どんな非難に対しても、事実関係以外の釈明<これは「釈明」(言い訳)ではなく、むしろ「説明」でしょう>は必要ないでしょう。それよりもむしろ、その非難を自分に収めることです。そして、自分の手でそれを直すことができるのならば、次の機会に自分の手で直して見せることを勧めますね。国家にとっても、外国からの非難に対する時にはこれと同じことが言えそうです。■<101009>