「ほんもの」と「にせもの」
以前の職場にこんな先輩がいました。周りの人を見てその値打ちを測るのに「ほんもの」と「にせもの」などの目盛りを使うのです。ある人との経験を実際に共有した後輩の私に向って、「あいつはにせものだ」とか、「あいつはほんものだ」などと言います。
「にせもの」の例はありふれています。若い人の前で役員を(大きな会社でしたからね)悪しざまに言っては自分を大物と見せたがる人、とかく自分の都合の良い方に話や状況を持って行く我田引水の人、上に弱く下に強い人、相手にふさわしい言葉遣いができない<「~させていただく…」>人。手柄は自分に、失敗は他人のせいにする<J.ケネディーが大統領に選ばれた夜、テレビの開票を地元テキサスで見ていた副大統領候補が電話をかけてきて「オハイオ州ではあんたは負けているそうだ。でも、ペンシルヴァニアで我々はリードしている」>。何ごとも自分に置き換えないと会話できない人<「竹橋の和気清麻呂の銅像は何故戦時の供出を免れたのでしょうね?」「私は以前あの近くの役所に勤めていた」「??…」>
「ほんもの」はといえば、「やるべきこと」のほかに「やってはならないこと」を持っていて、自分の損得や、当面の状況がどうあろうと、本人から見て正しいとことをし、そう思わなければ何があってもしない人。理由をつけて、自分で決めたやるべきことを止めない人。物事の本質を教えて人を育てる意図を持っている人<この人は駆出しの営業マンを連れて客を訪問する時、まず後輩の汚れた靴を自分のポケット・マネーで磨かせたそうです>。2000年11月、ニューヨークの貿易センタービルに、ハイジャックされたアメリカの旅客機2機が突っ込んで、アメリカ中が「テロとの戦い」にいきり立った時、「この事件は、アメリカが取ってきた、同盟関係や行動に原因がある」と説明した批評家。つまり、物事の本質をとらえて、それを相手によって表現を変えるなどして、説得を試みる人。
もうひとつこの人は、人の値打ちを測る目盛りに「りっぱな人」を持っていました。「りっぱな人」は、目的のためには手段を選ばぬ<仕事の環境を整えるために、不都合な部下は甘言を弄して、他部門に送り込んだ人>。自分の部署の成績をあげるために、誰もが不正とは断定できにくい手続きでことを進めて、回りに迷惑をかける人などです。ですから、この人「りっぱな人」がその職場を去ると、途端に其処の成績が可笑しくなる人です。
当時の私はこうした目盛りを、人を見分ける一つの基準だと思って聞いていました。
この人が重きを置いていたのは、もちろん「ほんもの」でしたが、何故重きを置いたかと言えば、「ほんもの」は人として通用する範囲が広いことだったのでしょう。
でも、こうした以上に私の役に立ったのは、この人が、それぞれを毛嫌いしてはいけないと言ったことでした。どうせ同じ職場で付合うのだから「この人はそうした相手だ、と思って付き合え」なのです。これは人と接する第三の道でしょう。「『にせもの』とはそのように理解して付合えばよい」のです。「あんな奴とは付き合えない」と思いながら、付き合えば、イライラするのがオチです。
最後にひとこと私から申したいのは、「ほんもの」がいつ付合っても「ほんもの」であり、「にせもの」がいつも「にせもの」とは限りませんよ-ということです。人は変化します。これが人間の面白いところだし、「気持ちを整理する」ヒントにもなるでしょうね。■<081010>