常識の範囲
常識はいくら考えても「これが常識だ」と、ひとくちにその範囲を決めるのはむつかしいことです。まして価値の多様化などと言われる今日では、常識の幅が広がって、時には各人各様のものを持っているようにさえ見えさえもします。それでも今日この欄は「常識の範囲」を取上げたのですから、一度にあれもこれも書くのでなく、常識と考えられるもののひとつの面を書くことにします。これがこの「気持ちを整理する」の特徴でもあります。
誰にも自分が常識と考えているものはあるのですが、その特徴のひとつは、それは当人にとって常に変らないものであることです。「常識を変えるほどのできごと」などと言いますから、常識はめったに変らないものなのです。もうひとつ自分にとっての常識は、聞かれたらそれがなぜ自分の常識なのかを説明できることです。でもこれは聞かれもしないのに言うことは勧めません。聞かれもしないのに言えば、相手にあなたのしていることの言い訳ととられるからです。
我々にとって最も身近な常識、つまり周りの人々との関係についてのものに限って言えば、「己の欲するところは他人(ひと)にもその如くなせ」<自分にしてほしいことは、同じことを他の人にもしてあげなさい-キリストの言葉です>とも「己の欲せざるところは人にも施す勿れ」<自分にしてほしくないことは、他人にもそれをしないように-孔子の言葉です>とも言われます。人とまじわる常識は、相手を不愉快にしないと言うこの辺が出発点になるでしょう。
難しい話は抜きにして、周りの人々との関係についての常識は、まず個人の生活のあり方で決まるようです。つまり常識を支えるのは個人個人の健康で規則正しい生活と言わざるを得ないところがあります。なぜなら、健康で規則正しい生活は我々に自分をコントロールする力をつけてくれます。自分をコントロールする力は私達が「自分の思ったように生きる」ことを可能にします。例えば他人に対する過度の依存から解放されて人付き合いでの潮時を見極めることや、経済や精神の自立などがそうです。精神の自立は欲望を抑えますから、思い込みや偏見を少なくして回りの人々とのの距離が測れるようになります。他人との距離が測れることは敬語などの言葉遣いや、自分の後始末は自分でするなど行動での常識を豊かにします。
常識を使うのはあくまでも自分ですから、他の道具同様ふだんからよく手入れしておくことが大事です。手入れする第一の方法は、それをふだんから良く使うことです。人と関る常識は自分が人のためでなく、自分のために使うと考えると長持ちします。それを誰かに「こう言われたから…」でなく、自分のこととして使うのが前提になります。ですから、ふだんから自分の「常識」の範囲を考えて、何ごとも自分のやり方を考えておくと良いでしょう。ひとつの例ですが、人の誘いや依頼を断るのに「忙しいから」と言わないこと、口にする食事を「まずい」と言わないことを自分の常識にしている人がいます。また、以前紹介した澀江抽斎夫人五百の父親の挿話<“自分なりの判断基準”=「考えるヒント」欄>などもこの例です。
おしまいに、人間関係の常識の基本的な役目は、それを他人のために使うことです。これは人の役に立つことが自分のためになると考えるとできます。健全な常識と呼べるものがあるかどうかは別として、人間である限り、人のために役立つ行為は健全でしょう。これには他人の悪い行為や落度を人間がしたことであると認めることも入ります。それは人間は完全な生き物ものではありませんから、人としての他人の限度を認めることと、自分のそれ持て毎日を送ることを意味します。
自分の常識を持ち、それらを自分の手で守るのは、ほかならぬ「自分のため」です。自分のアイデンティティーや一貫性を確保するためです。■<031010>