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×月×日

冬至を過ぎて柚子湯に入り、来年のお守りが手元に届くなどすると、歳末を感じ

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×月×日

毎月ほぼ決まった日に決まった街への往復があるので、その街の古書店に行きます。

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今月に入ってすぐ、第45代横綱若乃花が亡くなりました。大相撲歴代二位の小兵力士なのに、現役時代には

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いつものように、閣僚など政府関係者の資産を政府が公開しました。新聞は

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こんどのアメリカとカナダへの出張は期間が一週間と短いので、出発時間を半日繰り上げるなどして

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善良な市民として、私は時々調査会社から複数回答のアンケートへの回答を頼まれます

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これは極めて私的なことですから、興味のない方はとばして下さい。

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卒業と入学の季節を迎えて新聞の投書欄に若い人の文章がふえていて、

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雨の降り始めたこの間の夕方、バスの停留所でこんなことがありました。

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新しい年の始めには、多くの人が「今年はどのように過そうか、何をしようか」と考えます。

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「去年今年貫く棒の如きもの」<こぞことし つらぬくぼうのごときもの>は

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毎年この時期になると、電車やバスの中でカレンダーを持った人を見ます。

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10月に入るとさすがに夏の暑さも影をひそめます。そうすると周りが急ににぎやかになって

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今年の暮にこの個人サイトの英語版を開くことにして4月から準備しています。

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大雪山系の大量遭難騒ぎの最中に、W.クロンカイト<Walter Cronkite>の死が伝えられました。

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夏はお化けの季節です。この夏はお化けや妖怪の本を少し読みました。

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梅雨の晴間に大学街の古書街を回りました。以前その近くに借りて、5年間通っていたオフィスを引払って

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所属しているNPO法人「シニア総合研究協会」に、「見る・聞く・話す米語サロン」という名前で私が主宰する

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ゴールデンウィークには、私にも毎年やることがあります。それは読まずに手元にたまった本を読むことです。

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昭和17年4月18日、日米が開戦してからほぼ4ヶ月経ったこの日、東京は初めてアメリカ軍による

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ふだんは興味の中心からやや距離のあるテーマについて書いた本を、偶然の機会から読むことが年に何回かあります。

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よく晴れた立春の一日、この季節に一斉に公開される京都市内の寺宝を、観光バスで訪ねました。

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2009年は平穏に明けて天気もよく、東京では初日の出を拝むことができたほどでした。

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11月に入って、中国残留孤児の肉親探しのための一時帰国が今年もありました。

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拙宅の改装工事が終って仮住まいから戻ったのを機会に、「森銑三著作集」

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30年前に建てた、高井戸の拙宅の一階部分を改築することにして、その間の仮住まいには、

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城戸久枝「あの戦争を遠く離れて」(2007年 情報センター出版局)を読んだ。

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写真集「子供たちの時間」(橋口譲二1999年 小学館)を読みました。

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3日間家を空けて旅先から戻りました。戸を開けて家に入るとそのままの

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もう5年近くになりますが、浴風会<社会福祉法人「浴風会」は、1925年

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昼食の後、近くの浴風園に行って「認知症予防」の講演を聞きました。

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いま3組に分れている「見る・聞く・話す米語サロン」のクラスのひとつで、

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「バカの壁」(養老孟司・新潮選書・2003年)を2つの疑問を念頭に読みました。

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恒例の寒中見舞を出して一週間が過ぎた。もう15年以上、年賀状

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公立高校の入試に、国語のリスニング・テストを採用する学校がふえているそうだ。

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第二次世界大戦の末期の沖縄戦での住民の集団自決について、当時の日本軍が住民にそれ

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家人が一ヶ月ほど旅行に出て家を空けるので留守を預かることになった。これは以前からの予定

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夏になると数日を選んで、日中の暑い座敷に横になって、畳の感触を楽しみながら「寺田寅彦随筆集」

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ジョルジュ・ブラッサンス(1950~60年代のフランスの歌手)に「オーヴェルニュ人に捧げる唄」

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NPOを対象に、「杉並行政サービス民間事業化提案制度」の説明会があった。この制度は、

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こんどのアメリカとカナダへの出張は期間一週間と短いので、出発時間を半日繰り上げるなどして、

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高校時代の友人、横浜の歯科医浜野文夫君から郵便が届いて、著書の寄贈を受けた。「浜文味の旅」第6巻

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NPOで月に2回「見る・聞く・話す米語サロン」という名で開いている、13人の英会話のクラスは人気が高い。そこの授業の一部

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X月X日

写真集「子供たちの時間」(橋口譲二1999年 小学館)を読みました。
大判の見開きのページのどこを開いても、大体右ページには11歳と12歳の男生徒・女生徒の全身写真があり、左ページには今一緒に住んでいる人、今朝の食事、今まで行ったいちばん遠いところ、行きたい場所、どんな大人になりたいかなど一連の質問への答があり、それらの質問を補足する形で、インタビューの合間にその子の話したことが1,000字前後で要領よくまとめられています。
登場する100人余の子供たちは、どの子も親をほどほどに手伝い、兄弟や仲間と喧嘩し、質素(兄姉従兄弟の「お下がり」を着ている子、小遣いは5~6百円、それでも「多いと思う」子が意外に多い)に暮らしています。このくらいの年頃でも、立派な個性があるんだなあと、笑ったり、しんみりしたりしながら見ているうちに、だんだん自分のこと、自分のこの年の頃を想い出しました。

昭和10年11月生まれの私の12歳は昭和22年、日本が戦争に敗けて2年目を迎える年でした。新学期が始まると、担任の先生が代りクラス男子組から男女組へと大幅な組替えが待っていました。私の長野師範学校附属小学校6年2組は、1、2年の受持ちだった下島 節先生の許で、同級生もほぼ同じメンバーに戻った形になりました。
初日の授業が始まると、先生は教室に活けてある杜若を指してその名前を私たちに「かきつばた」と教えられ、それを俳句に詠むようにと言われました。選ばれた光生君の「今日知った花瓶の花はかきつばた」の句は、早速先生の手で墨書され、教室の壁に貼られて、それはたしか一年間そこにあった筈です。下島先生は一口で言えば、私たち生徒一人ひとりを理解しようとされた先生でした。それは50年後の同級会の席上、それまで先生が保管されていた、一年生当時在籍した級友一人ひとりの作文を先生自らが読んでくださったことでもわかります。

混乱期の日本は荒廃して人々は行方を見失っていた-とは、後から知ったことで、われわれ40名のクラスは、まことに屈託のないものでした。ただ、新らしく始まった社会科の「世界の貿易」で、日本の輸出品が「熊手」や「陶器」だけなのが、私には無性に悲しかったのを思い出します。それでも電灯のない教室で遅くまでガリ版刷りの「学級新聞」の編集制作に精出したわれわれには、その新聞で「将来何になりたいか」とクラス全員のアンケート特集をしたりして、未来への大きな希望を持っていました。

教室の中でも外でも「団結しよう」が合言葉で、これは春先に父親の転勤でクラスを去った同級生を、早朝の信越線の線路沿いの道に並んで手を振って見送った時も、運動会の対抗リレーの応援でも、農作業の木陰で「♪…垣に赤い花咲く、いつかのあの家、夢に帰るその庭、はるかな昔…」とアメリカ民謡を合唱した時も、そうした作業で怪我をした(教育実習に来た師範学校生徒の)「教生の先生」を借りたリヤカーで、朝の学生寮まで迎えにいって教室まで運んだ時も、野球の試合でも皆が口にしました。
私は、その春に小学校に入学した弟を連れて片道約45分を、その年は一日も休まずに通いました。それまでのように「デブ」とあだ名で呼ばれなくなったか、そう呼ばれても気にしなくなったのか、この頃から自分の体の大きいことに自信を持ちはじめ、また父母から繰返し聞かされた自分の名前の由来や、家族の歴史に誇りのようなものを持ちはじめたのは、12歳が自我の育つティーン・エイジャーへの入口であったのかと思います。同級生に何となく好きな女の子もいましたが、それがどうと言うわけでもなかったし、クラスでは勉強のできる子よりも、運動のできる子の方がまだ一目置かれる年頃でした。
今考えてみると私の12歳は、向上心を持つ仲間に恵まれると、人の生涯はどのように展開するか身をもって体験する、そもそもの出発点だったようです。