上野義道ホームページ-高井戸だより

Ｘ月Ｘ日

城戸久枝「あの戦争を遠く離れて」（2007年情報センター出版局）を読んだ。

「あの戦争」とはさきの第二次世界大戦のことで、「あの戦争」が掲げた国策が、それに沿って中国東北部に居を移した同胞の多くに過酷な運命を強いた事実はよく知られている。この著作は中国残留孤児と言う言葉が生れる前に、中国から苦闘の末に帰還した彼女の父親と、それをめぐる中国の養父母、実の両親、中国の友人知人たちの半生の物語だ。

著者の眼は、彼女の父親が日本人であるとの強い自覚を持って、自分の育てられた中国から帰還するまでの長く困難な道のりに始まって、ずっと遅れて帰国した多くの中国残留孤児たちの今日の状況、さらには父親の父親である祖父が属した満州国軍についてまで広く配られる。記述には、運命に抗した父親の行為を娘の目で嘆賞するのではなく、「あの戦争｣がどのように個人をそうした運命に巻き込んだのかという真剣な問いかけがあって、それが読者を次第に引き込んで行く。

ここには中国残留孤児を父親に持った一人の女性の、冷静にして優れた史眼が素直に表現されていて、一本の葦にも例えられる個人が、歴史の流れにどのように翻弄されるものかをまざまざと見せてくれる。そしてそれが著者のこの作品にかけるある意図のせいだと、読み進むうちに次第にわかってくる。
エピローグに書かれた著者の静かな述懐を読もう。

「あの戦争への反省から、戦後六十年以上の間、まがりなりにも日本は戦争をしない国であり続けてきた。そのこと自体はもちろん誇るべきことだと思う。（中略）だが一方で、あの戦争についての記憶は、時の流れのなかで確実に風化の速度を速めている。風化を加速したのはほかでもない、戦後に生まれ戦後を生きる私たちの意識だ。思うに、戦争を禁忌としてきた｢戦後｣は、ひたすら戦争を忘れようとする｢戦後｣でもあったのではないだろうか。そして戦後六十数年を経て、いまや私たちは｢忘れてしまった｣ことも忘れつつある世界を眼の前にしているようだ。国と闘いながらステレオタイプな世間の偏見とも闘い、時間とも闘ってきた中国残留孤児たちの姿は、そのことを象徴的に示しているように私の目には映る。
本来世代を超えて語り継がれて然るべき大切なことが沈黙のなかで失われていき、弱者への想像力が希薄化していくこの時代。だからこそ私は、あの戦争に端を発する父の物語を、もうひとつの｢戦後史｣として記録しておきたかった。戦争のないことが当たり前に感じられる「現在(いま)」、それが当たり前でなかった時代があったことを忘れないために。戦争の時代を必死に生きながら、多くを語ることなく亡くなった祖父母の――そして国を超え父を我が子として愛し慈しみ育てた中国の祖父母の――声なき声を、私の胸に刻むために」。

このような記録の前に、私たちは声もなく粛然として襟を正す。