上野義道ホームページ-高井戸だより

Ｘ月Ｘ日

拙宅の改装工事が終って仮住まいから戻ったのを機会に、「森銑三著作集」＜普及版・全12巻・別巻1巻、昭和48年（1973）中央公論社＞を、とうとう手に入れることができました。
「とうとう」とは、約30年前刊行当時には、とても手に入れる余裕がなかったのですが、それでもこの著作集はその時以来、私がいつもいちばん読みたいものの上位にあったからです。この正編発刊の約20年後の著者の没後には「著作集・続編」＜全16巻・別巻1巻、平成４年（1992）中央公論社＞が出て、この方は刊行と並行して手に入れて読むことができました。

森銑三＜もりせんぞう、明治28年（1895）～昭和60年（1985）＞は、愛知県の人。代用教員、図書館や史料編纂所職員、雑誌編集者などの職を経ながら、独学で近世の人物や典籍についての研究を進めました。彼の研究の成果はそのほとんどが、この正続併せて25巻･別巻２巻の著作集に結実しています。その業績は読書家を以って知られる、石川淳、永井荷風、柳田国男などをはじめ、諸家の等しく畏敬するところです。

その仕事は、あくまでも近世の人物の書簡、日記、典籍などを通しての史実の発掘で、過不足ない表現を通じて、取上げられた近世の知識人がそれぞれにどのように感じ、どのように生きて何をしていたかが、いきいきと蘇えりますその筆致は人物を伝えるに詳細でありなが、まことに温かいものがあって、読む者の心を和ませます。

こんど購入したものは、半年くらい前から、ある大学街の古書肆に大変よい状態のままであることを知っていましたが、この夏の盛りに杉並中央図書館から借り出した巻で、江戸時代の士魂の儒者、佐善雪渓の事蹟に触れたことが決定的でした。購入した古書肆は「文英堂」（電話：03-3209-6653）で、以前私が新書版の「漱石全集」＜全35巻、昭和31年（1956）岩波書店＞を、出版当時のままの姿で手に入れた店でもあります。

この正編は、続編が著者の没後に編まれたのに比べて、著者の意向が各文章への追記やその文章の配列に至るまで、濃やかに反映しているのがわかります。
A4版約500ページの各巻の表紙に谷文晁、椿椿山、池大雅、富岡鉄斎など当時の絵師の描く、海量法師、新井白石、了然尼、柴野栗山など、それぞれの巻に登場する人物の肖像が載っているのを見て、私はまず各巻のそれらの人物を読んでゆくことにしました。
早速手に取った第一巻の表紙には、谷文晁が描いた南畝太田蜀山人に関する短い文章が載っています。それには南畝の人となりをあらわす挿話のひとつとして、次のようなことが書いてあります。
ある年の盆前の暑い一日、南畝が約束の人を訪ねると、本人が急用で外出中とのことで面会を果たせません。仕方なく他の用件に回る道すがら、道端の露天で古書を商う者があるので近づいてみると、南畝が以前から持っていながら、その一、二巻の欠けた書物のまさに一、二巻だけが端本として並べてあります。ありがたいと買って帰って中をあらためると、この二冊の以前の持ち主は、自分がいま持っている三の巻以下と同一人物だったらしく、よく見ると同じ蔵書印まで押されているというわけです。
不思議な経験をしたと蜀山人はその日の日記に、「世はかくしてこそおもしろけれ」と書き付けているそうです。

あたり前の事ですが、最近本を読む時間は以前にもましてやりくりして作ることができます。楽しみながら一日およそ20～30ページずつ、古語辞典や漢和辞典とくびっ引きで読むとして…、この著作集は私の雑食的な読書人生の掉尾を飾るものとなることでしょう。