上野義道ホームページ-高井戸だより

Ｘ月Ｘ日

30年前に建てた、高井戸の拙宅の一階部分を改築することにして、その間の仮住まいには、隣駅の久我山に夫婦ふたりには十分な間取りの木造アパートを借りることができました。そこで今年は、夏の盛りの二ヶ月余りをそのアパートで過しています。

引越しは簡単でしたが、住環境が変るのは本当に久しぶりです。夏の盛りだから、開け放った窓から外部の音がさかんに入って来ます。同時にこちらの音はほぼ筒抜けです。毎日遠慮しながら、気兼ねしながらなるべく静かに暮しています。
１～２週に一度の割合で必要な物を取りに行ったり、引っ越しの時に必要と思って運んだもので不要なものを置きに帰ったりと、高井戸まで往復します。行ったついでに工事の進み具合も見るのも、荷物が詰まっている二階に風を入れるのも仕事のうちです。一回の滞在時間は一時間ほどですが、しばらくいる間にそこで本を読んだり、手紙を書いたりすることもあります。そんな時には、そこにこれまでの30年の生活が詰まっているのが感じられて、何となくほっとします。そしてこうしたことを何度か続けるうちに、以前にもこんな気持ちになったことが私にあったのを思い出させます。

日本が戦争に敗れた昭和20年に、私は10歳を迎えました。夏に入ると戦争の帰趨からでしょうか、学校は８月いっぱい休みとなりました。そうして或る日の昼食時に外から帰ると、私の母が、東京で焼け出されて同居していた伯母たちと額を集めて相談をしているのでした。聞いてみると、長野市が近く爆撃されるから私たち家族は、長野市の北の山際にある淺川（当時は村）に疎開するというのでした。余り積極的でなかった母に、東京で被災して来た伯母が強硬に勧めたようです。
こうして、淺川村字福岡という地籍にあって、南側の斜面が長野市を望む農家の表座敷二間に、伯母の一家と私たちの家族がリヤカーいっぱいのごく限られた日用品と一緒に入りました。農家の大家さんは、北側の部屋に住んでいます。ここで私たちは８月13日に長野市が空襲を受けるのを目の辺りにし、２日後の15日には敗戦の報に接したのでした。
同じ屋根の下の大家さん一家との生活でしたから、相手はとても親切な人達なのに、子供は子供なりに窮屈な思いをしました。日用品や水の圧倒的な不足は、生活がすっかり変ったように見えました。

私たちは、それまで住んでいた長野市内は三輪田町の家と区別するために、その疎開先を「山」と呼びました。三輪田町の家は「下」です。
「山」からは、ほぼ毎週「下」に帰りました。母は必要なものをとりに帰ったのでしょう。そんな時は、空襲の恐れのある日中を避けて、朝早く「下」に向い、一日を過して、こんどは夕方「山」に向うのです。荷物を満載した乳母車は、体の大きな私が押しました。５歳になったばかりの弟を大きな子供たちが励ましながら、母が音頭を取って姉弟従兄弟が声をそろえて、歌いながら夜道を戻ったものです。数々の小学唱歌、母が女学生の昔に兄に当る伯父から教わった、旧制一高の寮歌などを繰返し、繰返し大きな声で歌いながら、薄暮から真っ暗になる５、６キロの道を歩きました。

「下」には豊富な水と空間、そして何よりもその時までの生活が、そのまま残っていました。私はいつも二階の自分の部屋で机に向っては、「山」には持って行けなかった気に入りのものを出したり、本を読んだりと、専ら日常を楽しみました。母は昼間から風呂を沸かして、子供たちを心ゆくまで洗ってくれました。そうしたひと時の過し方は、子供心にも「山」の生活が気兼ねするものであることを思い起こさせたものです。あるときなど「下」から旧制長野中学生に通っていた従兄が友達から借りてきていた少年講談「太閤記」を、その日だけと言う約束で借りて、必死に読んだこともあります。墨俣（すのまた）の一夜城、「長短槍問答」などの挿話の記憶は今でも鮮やかです。

戦争に敗れると、私たちは早々に「山」を下りました。「下」に帰った夜の記憶は、黒い覆いを取り外して煌々たる電灯の灯りです。その後には、戦後のあの耐乏生活が待っていたのでした。