「忠告」を受ける
他人から「忠告」を受けるのはなかなかむつかしい。
われわれは自分のしていることはいつも正しく、だから自分のすることや言うことは周りの人にも役立つと思っている。(この自信があるから、生きていけるのです。)
むつかしいのには2つの理由がある。まず、ここでいう「忠告」は「注意」ではないからだ
(もちろんいわゆる「助言=アドバイス」ではない)。
「注意」とは「無駄使いになるから、それは買ってはいけない」とか、「ここでは左側でなく、右側を歩きなさい」とか、「今よりも一時間早く起きなさい」などと、いわば行動の(一時的)修正を求められることを指す。ところが「忠告」は、「何でも自分だけでしようとせずに、もっと人に任せなさい」とか、「ひとの価値を、その人の学歴だけで評価しないように」とか、「仕事の記録を今の2倍文章で残しなさい」などといわば自分の考え方や価値観、それにそれまでの習慣を(一部否定された上で)変えろと言われることで、きつくて耳の痛い、それを実行するのは面倒なことばかりだ。こうしたいわゆる「忠告」は聞いたふりをして、その場をやり過ごすことはできる。しかしそれを実行に移すのは、あなたにはあなたの思い込みや信条があるからとてもむつかしい。つまり「忠告」は多くの場合無駄にされる。
「忠告」を受けるのがむつかしいもうひとつの理由は、忠告してくれる相手とあなたとの関係を考えるからだ。
忠告は受ける側にはいつも突然やってくる。あなたはその忠告に耳を傾けながら、短時間のうちに相手は自分にとってどんな人だったかと、それぞれの立場や年齢、地位や境遇など、これまでの関係を考える。その結果、この人は自分が忠告を受ける価値のある人か、こちらのことをわかって忠告しているのか、さらにはこちらの身になっているかなどと、その意図までもさかのぼって考える。つまり実際には、あなたの頭の中は相手の忠告の中身よりも、その前のこうしたことで一杯のはずである。
このように、他人から忠告を受けるのは本当にむつかしい。
それでもあなたの成長のためには他人からの忠告は受けたほうが良い。
いうまでもなく、あなたが自分の考えと行動を変えたいなら、
一番良い方法は経験から学ぶことだ。しかし、それは昔から言われていることだし、実際にも自分の考えと行動を変えるような経験は、誇張でなく、一生に1~2度しかできないようだ(筆者は2度ですが、その時は20代と40代でした。この先にこうした経験は-おそらくもうないでしょう)。だから忠告は無駄にしないほうが良い。
もちろんこれからも多くの人が、あなたから見たら役に立たないと思うような、
忠告をしにやってくる。だからそれを無駄にしないために、2つの方法が考えられる。ひとつはあらかじめ「忠告はどんなものでも受ける」と決めておいて、他人が忠告に来たときにはそれを受入れる。もうひとつは相手がこれまでのあなたにとってどんな人であっても「忠告する人」としての相手の立場を受け容れるようにする。なぜなら、相手との親しさや、相手がこちらの身になっているかどうなどは、忠告を聞いた後で考えたって遅くないのだから。
蛇足:こちらから忠告するときには、①忠告は相手に前もって通告しておく。②まずあなたの忠告の意図を説明する。③できれば相手との関係の説明から入る。などのことが効果的であろう。それをできないなら、それまでして忠告など、相手もいやがることだから、しないことだ。