「資格」の危うさ
昭和29年から30年<私が大学生だった頃だ!>に、ある人が腹に据えかねたという風に、文学を解せずして文学を教えている人があまりに多すぎると書いているのを読んだことがある。この文は、外国の戯曲や小説にも、25年間芸術について読んだり書いたりしている男が、ついに芸術を解さないと評価される話だの、傍目には申し分ない生活をしていながら、実は私には信仰がないと告白する聖職者だのの例をあげてもいる。この人は他のところでも、「本を知らない図書館の人」などと書いているから、資格の持つ危うさに気付いていたのだろう。
今から半世紀も昔のこの頃に比べて、昨今はますます資格ばやりになっている。定年が近づくと資格を幾つも取ろうとする人が後を絶たない。資格を提供する方では、それを取ればすぐさま世間を渡れるかのように囃す。そして、資格の数は、これまでのものも含めて、ふえ続けている。ここではこうした風潮から来る「資格」の危うさを、常識の範囲で見る。
考えれば、資格は邪魔にこそならないものの、それですべてを解決するものではない。資格はある種の職業につく必要条件と見るのがせいぜいで、資格イコール職業ではない。それでも資格を取ると、仕事が舞い込んでくると考える人が、まだ沢山いるようだ。法科大学院に入って、昨年弁護士資格を取った人の、一年後の未就職率が40%以上などと報道されているのはこの例だ。資格はその多くが、一回きりの試験で、どこかに必ず書いてあること<「答はひとつだけ」ということです>を暗記して通る試験の合格者に与えられて、肝心の知識の実行能力が備わっているかが試されることがないことや、ほとんどの資格に再試験がないことなどを忘れてはならない。
資格がそれを取った人をある種の職業に導く側面を持つならば、世間の職業には、ひとつの答だけがどこででも通用するものなどないのは明らかだ。どの職業にも、それが実際の場で向合う問題解決には複数の答が求められる。だから資格の何たるかを分った上で、それを上手に使わないと、医師の資格をとっても名医になれるとは限らないし、大学教授で終身地位<tenure>の資格を持っても碩学になれるわけではない。また会社によっては参事、参与などと呼ぶ、将来役員になる資格を与えるところもあるが、その資格をとっても優れた経営者になれるわけではない。それにしても、不動産鑑士、中小企業診断士、医師、看護師、薬剤師、大学教授の終身在職権<tenure>、図書館の司書、地方自治体の都市や自然ツアー・ガイド、整体師、鍼灸師、農林業の各種鑑定士、教員資格、英語の検定で何級と分けるのも、翻訳などの資格の提供に近いから、今の世間で資格と呼ぶものはとても数えきれない。
どこでも見られることだが、資格をとっただけの人はともすると、自分の資格をどのように職業化する<professionalize>か、つまり自分の専門知識を職業上の問題解決にどう役立てるか、結びつけるか<「職業倫理」の一部でしょう>がわからないままで一生を終えることになる。相談者の希望が理解できない「中小企業診断士」、子どもの気持がわからない教師、患者やその家族の気持ちがわからない医師、薬剤師、看護師、医療技師など医療関係者、買手の欲しいものがわからない「販売士」、クライエントの置かれた状況が理解できない「臨床心理士」など。こうして、世間にはアマチュアが増える。
そうしたアマチュアの多くが、資格が求める能力の範囲を理解できずに、自分の力を問題解決につなげられないで、威張る、脅すなど、本人がそう思っているその職業上の手先の技巧に走ることはよく見受ける。治癒<healing>を理解しないで、患者に自分の治療方針を押し付ける医師、依頼人を自分の法解釈に従わせようとだけする弁護士などは、職業倫理を解さない点で、いずれも危ない。親の地盤頼りの世襲議員は、自党の員数合せ使われた挙句に霧消した。
以前アメリカのある大学教授に「あなたは教師<teacher>と呼ばれたいか、それとも研究者 <researcher>と呼ばれたいか?」聞いたら「プロフェッサー<professor>と呼ばれたい」と答が返ってきたことがあった。■<072510>