自分なりの判断基準
誰でも自分独自のスタイルや判断基準がある。しかしそれについては、聞かれれば答える人が大半で、ふだんから考えている人ばかりではない。だから、これは「今年の抱負」と同様、各々がそれに沿って生きているかどうかは別のようだ。
森?外の史伝「澀江抽斎」に、彼の妻五百についての次のような挿話がある。
澀江抽斎の妻五百<いお>は商家の出である。父は日本橋の鉄物問屋で、屋号を「日野屋」という。山内忠兵衛、名は豊覚である。五百は豊覚の次女で、三人の子の末っ子として生れた。父親は家業の傍ら詩文書画をよくして多くの文人と交わり、彼らを庇護した。そんな関係から、彼は三人の子弟に諸芸のほか、男子はもちろん女子にも武芸を仕込んで、武家奉公に出したりした。と言うのは、豊覚の祖先は戦国大名山内對馬守一豊の弟但馬守盛豊から出て、下って江戸時代にも、山内家の三葉柏<みつばがしわ>の紋をつけ、名前に豊の字を用いていたからである。
文化13年生れの五百は、11、2歳で(江戸城の)西本丸に奉公した。本丸を下った五百は、15歳の時には藤堂家に奉公していた。彼女はその奉公にあたって、二十数家を目見<めみえ=面接を受ける>して回ったと言う。今の就活である。
藤堂家の前に、五百が惹かれた家がひとつあった。土佐の松平土佐の守豊資の家中で、五百と同じ山内氏である。目見の当日、五百は出てくる女中がみな木綿の着物を着ているのを見て、24万2千石の奥がそのように質素なことに好感を持ち、奉公する心を決めかけていたのである。当家の老女から、考試(口頭試問)を受けた後、手跡(色紙に書く)、和歌(一首詠む)、音曲(常磐津を語らせられたという)などを試されたが、去り際に老女が五百の衣服の紋が当家と同じであるのに気付いた。問われた五百が仔細を話すと、当家に召抱えられたら、その紋は当分遠慮するがよかろうと言う。家に帰ってこのことを父親に相談すると、豊覚は即座に反対した。生命や家紋は先祖からうけて子孫に伝える大切なものだから、それを隠すような奉公ならせぬがよいというのである。五百は父の考えに賛同して、藤堂家に勤めた。
少し長くなったが、上の考えの当否は別として、このように人に示せる自分なりの方針や流儀とでも呼べる「これだけはする/しない」といった、判断の基準を持つことは今日でも必要だと思う。それを持つことによって、いざと言うときに、相手を寄せ付けない何かを感じさせることが大切なのである。また、これを持つことによって逆境にあっても自分を恃む<たのむ=力として頼る>ことができて、自分を守れる。
近頃自分の流儀をはっきりと示すことができずに苦労している人が多いようだ。人と親しくするのは良いが、相手に流されて相手の言いなりになれば要らぬ不幸を招く。
時に応じて自分の流儀をはっきりと示すと、周りから、あの人には軽々しいことは言えない、させられないと見られるから、これは相手の勝手な行動を抑止する力<抑止力>になる。この抑止力<deterrent>は、冷戦時代の国際政治でよく使われた言葉だ。これは例えば、相手の脅威となる核兵器を配備することで、核兵器を保有する相手国の無謀な行動を抑え込む力だ。個人の場合と同じである。
また、こうして「これだけはする/しない」いった、個人としての判断の基準を持つのは、自分自身がプライドを持つことにつながる。個人のプライドは自分自身の度外れた行動の抑止力になる。
同じことが集団のプライドにも言える。それは集団が時として暴走したり、迷い衰退したりする場合の抑止力になる。集団の行事や伝統文化の着実の継承などは、その一貫性が集団のプライドを生み出すことによって、それに携わる人達が意識している以上に、その集団の無意味な行動を抑止する効果をもらたす。
こうした独自のスタイルや判断基準は、親から受け継ぐなどして、自分の判断で手に入れるものだろう。経済的に独立している成人には、こうした判断基準を自分の家族などの集団の内外に、自分で見つけることを勧めたい。子を持つ親には、家族が大切にできる主義や判断の基準を、なるべく早い時期に、恥ずかしがらずに子供に伝えることを勧めたい。■