ガイドとリーダー
登山シーズンの幕開け早々に起きた北海道大雪山系の大量遭難(2009年7月16~17日)は、大そう痛ましい事故だった。遭難の方々にはお気の毒だが、山に登るとは、ほかのことと同様、命と引き換えにするほどのことではないと改めて知る機会にしたい。
山登りは、もちろんそうなる事が望ましいが、なにがなんでも「山の頂上に足跡を記す」ことや「コースを踏破する」ことではない。だからそのようなことを目指したかに見える今度の山行があのような結果になったのは、当の登山者のせいでもガイドのせいでもない。
私は事故の原因を、今度の山行を計画した関係者のパーティー(party=旅行やどこかへの訪問など、何かを一緒にやろうとする一団人々)に関する理解にあったと見る。このパーティーにはリーダーがいなかった。従って当日の行動を中止し、停滞する選択が当然なかった。この一点が大量遭難の原因で、当日の天候でも、参加者の体力不足でも、ガイドの未熟でも何でもない。つまり、どのようなパーティーにもそれを動かすリーダーが必要と主宰者が知らなかったか、ガイドとリーダーの役割を混同していたかのどちらかだ。
あの遭難の後、マスコミに登場した人々が異口同音に言ったように、自分の体力に応じた山の選択は必要なことだ。でも経験の浅い人に自分の体力など、自分で申告できるだろうか?自分で申告できるレベルなら、このようなツアーには参加しないだろうし、「自分の体力に応じ」るのは、食事の摂り方、金の使い方などにも言える試行錯誤の世界だから。ただ、ここでは安全な登山技術について言おうとするのではないから、話を先に進める。
今回の山行にはリーダーがいなかった。リーダーの機能を欠いたパーティーが山に登ったのだから、それがそのまま結果に出た。ガイドがいたではないかと言うかも知れないが、リーダーとガイドは根っから違う。何が違うかと言えば役割だ。リーダーの役割と、ガイドの役割は別々のものだ。リーダーは判断を下してパーティーを動かす役割を持つ。その判断の材料を提供するのがスペシャリスト、つまりガイドの役割だ。役割だから善い悪いでなく、これは守備範囲の違いなのだ。
リーダーとスペシャリストの役割は、私たちの周りのどこにも見られる。営利会社の中身は、経営判断の材料を提供するスペシャリストの役割<法務、購買、経理、財務、マーケティング、製造、技術など>と、そうした材料をもとに事業の方向を選択し動かす経営者の役割に分れる。病院では患者のデータを医師に提供する検査技師(medical technicians)がスペシャリスト。データをもとに患者の容態を注視して、処置を決める医師はリーダー。こうしてリーダーは情報をもとに事業の動く方向を選択するから、その役割を欠く組織は方向を失う。組織にはリーダーとスペシャリストのいるのが理想だが、万一スペシャリストがいなければ、リーダーがその役割を担う。その反対は金輪際ない。必要とあらば、組織の外にスペシャリストを訪ね、判断材料を仰ぐこともするのがリーダーの役。
人間の行動には、ましてや組織の行動には、専門家(スペシャリスト、エキスパート)と、リーダーの機能が必要。専門家は当該事項の専門家(subject matter expert)で、個々の専門分野に限定した知識と判断能力は豊富で高い。例えば、今この部品をこれだけ発注すると、今後の生産にこのような影響を及ぼすかとか、今回の銀行借入れは、今後のキャッシュ・フローにこうした影響を与えるなど。しかし、それぞれの専門分野をその一部にした、総合的な判断能力を使うのはスペシャリストでなく、リーダーの役割。これは混同しないようにしたい。
行政事項の諮問を受ける、委員会、協議会などの顔ぶれを見ると、各分野のスペシャリスト(つまりガイド)の集まりだから、彼らの自分の専門以外に関心を持たない、知らないマインドセットというを理解しよう。だからそうした顔ぶれの答申、つまりスペシャリストの提供する材料は尊重した上で、行政の方向方針を決めるのは、リーダーとしての政治家の役割であることを忘れないようにしたい。
冒頭の大雪山系の遭難に話を戻すなら、今回の論評に体温低下防止策など技術的なものが目立つのも残念だ。これでは山の事故はなくならない。
「病気は治すより、罹らない」観点から言えば、リーダーのいない山行の誘いには応じないことしかない。古人は「君子危ふきに近寄らず」と言った。■