上にも下にも
今年の関東大学ラグビー対抗戦グループでは、創部150周年を迎えたA校を先頭に、B、C、Dの4校が優勝争いに絡んだ。ところがA校は、あと一勝すればという試合のノーサイド寸前に、4位に終ったC校に逆転で敗れてB校に優勝をさらわれた。翌日の新聞の試合評はA校の「選手層の薄さ」を指摘して、スター選手の故障欠場が試合の帰趨を決めたとある。その反対に翌週優勝を決めたB校は、シーズン初めから故障で欠場した主力選手の穴を他の選手が埋めて、優勝をもぎ取ったという。
A校とB校のこの違いは何だろう?
A校の選手層が薄いのは、そのかみの創立者が「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と引いた西洋の文章の誤解が後輩に残っているのかも知れない。私の学生時代にA校の近くの床屋に創立者の肖像が掛けてあって、店に来てそれを見上げた学生が「xx(教授の名前だったらしい)に似てらぁ」と言ったとかで、学校から処罰を受けたと聞いて呆れたことがある。この大学では、未だに創立者だけを「先生」と呼ぶそうだ。創立者の上に人はいない、創立者だけがスターというのかも知れない。
一方B校では創立者は、まあほどよく尊敬されていても、絶対視されていない。上も下もあまりなくて、今のことは知らないが、そのかみ政治家連が、与党である保守党の総裁から野党で革新政党の書記長まで揃って学校に政談演説に来ては、世間知らずで向こう見ずな学生達の激しい野次を楽しんで帰ったものだ。
A校の学生には、世故に長けたスマートさはあっても、泥臭さがないと言われる。この学校では今も、学園祭のミスコンテストなどを続けているそうだから、個人中心、独立自尊(これも校是のようだ)なのだろう。そう言えば最近卒業生で職業政治家になったのにも、自分中心にかき回すタイプが多い。
閑話休題:私党は別に、公の組織は人の層が厚くなければ力を発揮できない。つまり人の層が厚くなければ単なる私党に終って公の組織とは呼べない。組織の危機管理とは不測の事態に備えることで、それには人間いつどうなるか知れないという現実への配慮も入る。だからそれぞれの現場は、現場の人が掌握して、その方向を決める人が複数必要だ。スター1人で組織のパフォーマンスをあげようとしても、所詮無理だろう。
ヒマラヤほどの高峰を目指すパーティーは、頂上(ポーラー)を極めるだけの力を持つ複数の登攀者を繰り出す<極地法=ポーラー・システム>。しかし、天候などの条件があるから、その中の限られた人が登頂の幸運と栄誉に浴する。ここで忘れてならないのは、同様の猛者が、後続のキャンプに詰めて腕を撫している、つまり自分の出番は今か今かと待ち受けててる)「層の厚さ」が登頂の成否を左右することだ。
父の育った瀧野川の家のお向いのHさんのご主人が病気で倒れたとき、毎日会社の人が訪ねて来たそうだ。何故来たかといえば、会社の仕事でわからないことがあるので、それをHさんに聞くためだ。父は後年この話を子供の私に何度も聞かせて「Hさんのおじさんが悪いんじゃない。会社のことを知っているのが一人だけで、その人がいないと周りが困るようでは会社じゃない」と繰返し話した。
どんな組織も、周りに散々気をもませた挙句「あぁ、あれはね、実は…」と初めて口を開くような一握りの事情通だけが支配するものにしてはならない。事情通はスターでもなんでもない。それどころか、その組織は内部の情報が偏在していて、脆弱な組織であることを示すに過ぎない。
組織のリーダーや経営者の仕事の第一は、自分の預る組織にどんな人が必要で、現実にそうした人が揃っているかどうかの目配りなのだ。揃っていなければ育てるしかない。だから公の組織が教育機能を持つことも重要な能力。人材育成はスマートとではなく、どちらかといえば泥臭い仕事だ。スターを連れて来て据えるのはあまり勧めない。
組織は「人の上にも、下にも人を作れ」と言いたい。■<122509>