どこを向いても日本ばかり?
近頃の報道には読者や視聴者がよくわからないものが多い。報道されるのはその事実だけで、周辺の事情が伝わって来ないからわからない。つまり、報道される事実がどういった状況の中で起ったのか、なされたのかが、インターアクティブな形で入って来るものが少ない。従って日々の報道の大部分が一過性になって、それについて考えを巡らす機会が減っている。
こうした傾向は、われわれの大部分にとって最も関心のある、日本と日本人に関する報道に多く見られる。
例をあげよう。「日本人大リーガーがスプリング・キャンプ入りした」との報道では、ほぼこれだけが伝えられて、その選手が所属しているチームがどんな質のチームで、彼がそのチームで、今どんな境遇にいるのかが伝えられない。「日本人宇宙飛行士」は大きなシステムの一員のはずなのに、他のクルーがどういう人なのか、今回の宇宙でのミッションは何なのかは報道から除外される。他にも「N人が共同受賞したノーベルXX賞」は日本人以外の誰が受賞しているのか?米ゴルフツアー参戦の日本人ゴルファーのラウンドのパートナーは?ある競技で日本選手が二位になったが、優勝者はどこの誰か?など疑問はつきない。
このように、日本人が、国外<相互関係のある場だから「国際社会」と呼んでよいだろう>で、いったい何をしているのかが伝わってこない。海上自衛隊がソマリア沖に、海賊掃討のために出かけるという。海賊が狙っている積荷は一体何なのか?それは極東から国軍を派遣して略奪を阻止するほど重要な物資なのか?最近総理大臣が訪問して、外国の政治家と会談した席には、自他のどういった政府関係者が同席して、会談がどの程度の規模で行われたか?会談後の記者会見の中身も、国会の解散時期や、閣僚のスキャンダルといった国内の政治問題(これは読者の興味関心よりも、報道する側のそれに焦点を絞った話題なのだろう)ばかりでなく、その国に関する会談出席者の見方や、会談の経過を伝えてほしい。
これこそ報道の肝心な点で、それがどうも欠落していると徐々にわかってくると、そうした報道にある「記者団の質問に答え」は日本人記者団、「おおぜいのギャラリーを引き連れてラウンド」のギャラリーも、「(WBC)二連覇を期待して続々詰め掛けるファン」も実はその大部分が日本人であることを先刻承知でなければならなくなる。
報道で見る限り、日本のメディアに登場するのは日本人だけ、古い唄みたいに「どこを向いても菜の花盛り …」なのである。日本や日本人の行動の一部分だけが拡大して報道される怪が続いて、地球上には、どこに行っても日本人だけが住んでいるみたいだ。
こうした報道の現状では、事実のみならず国と国、異文化間の摩擦や友好など、いろいろな関係の曲折を経て、国家間での行為が創造されるダイナミズムが国民に伝わらない。こうなると政治家や学者など、いわば世論の指導者やマスコミが口を開けば呪文のように唱える「外国人に堂々と主張を述べることのできる国際性」や「国際化」は、日本人の望ましい姿としては、目下棚上げされているようだ。こうして「外国に弱い日本人」はこれまで通りとなる。
「外国に弱い日本人」は、自分の国以外の人と共同作業ができない。それでも宇宙船は1人で飛ばしているわけではないし、スポーツも国際政治や経済も相手あっての事だ。
面倒なこと、都合の悪い事は報道せず、水道をひねれば水が出る、スィッチひとつで電気が点く-そういう見方に慣らされた挙句、われわれは物不足や災害等の日常の危機に脆弱になる。危機管理がおぼつかなくなって、国家の安全が脅かされる。■