語感を養う
日ごろ愛用しているものが壊れたら修理して使う人がふえているという。その人達に共通するのは「気に入ったものを新たに探すより、愛着のあるもの使い続けたい」と考えることで、節約よりもこれに重きを置く人が多くなっているらしい<日本経済新聞(夕刊)(2010年2月8 日付)>。そうだとすれば、日ごろ最も愛用しているのは自分の言葉だろう。めいめいが自分の話す言葉に愛着を持って大切に使い続けたい。私は以前ある機会に言葉の乱れがひどいと指摘したことがある。そこで今日は言葉の乱れを非難するのでなく、めいめい自分の言葉の手入れについて書く。
言葉は各人各様にその時の自分の立場や相手との距離によって使い分けるものだから、その表現はさまざまでよい。ただ、言葉だけは自分を的確に表現するものを、自分の手で選ぶことにしたい。ここに語感の問題が出てくる。
語感とは何だろう?字引には他の解釈に交じって「言葉に対する感覚。言葉の細かい用法・意味の違いなどを区別する感覚」とある。ここで取上げるのはこれである。
健全な語感を持っていると自分が良く見えるし考えが相手に正確に伝わるから、人付合いが円滑になるなど生活が豊かになる。言葉を読んでも聞いても「このひとはこう言いたいのだな」、「ここがわからないのだな」とわかる。反対に自分の語感が乏しくて相手の話している意味がとれないと相手との会話が中途半端になるから、話から得るものが少なくなる。
優れた語感の持主の言葉は、優れた工芸品や絵画、楽器の上手な演奏と同じように鑑賞に値し、人を啓発する。それが昂じたのが講談、落語、漫談などの類で、これは芸となる。
言葉などは曲りなりにも伝わりさえすれば、用を済ますのに支障はないと言う人がいるとすれば、これは着る物は寒さ暑さをしのげればばよい、食べ物は空腹を満たせばよい-と言うのと同じで考えとしては貧しい。
すぐれた語感を持っていれば、必要なことを言うのに余計な手間を省くことができる。そのためにはふだんから語感の手入れを怠らないことが必要だ。表現はさまざまでよいと書いたから例を上げることは控えるが、借物の言葉を使うのは語感の乏しい人だろう。いいかげんなことばを使っておかしいぞと思ったら使わない。これも語感を生かす途だ。
これまで語感を養うのに役立ってきたものに、わが国古来のことわざ、いろはカルタ、それに小倉百人一首などにある和歌、謡曲や俳句等韻文がある<狂歌、川柳、替え歌などもこうしたものに入ります>。どれもが耳から入る洗練された音の表現だから、自分の好きなものを作ると良い。これらは言葉の選択の幅を広くするから、あなたに選ぶ能力をつける。そのひとつとして、最近発見されたと言う古歌に見られる「みそきするかはせのかせのすすしきはむかひのきしにあきやきぬらむ」<朝日新聞(2010年2月15日付)>をあげておこう。声に出して読むとよい。また中国伝来の「漢字」の本来の意味を知れば、こちらは目から入る洗練された表現として語感を養う助けになる。だからある年齢になったらそうしたものを意識して読むとよい。
ふだんから優れた語感の持主だけが他人に語感を伝えられる。ということは、語感はなるべく早い時期から身につけた方が良い。60歳過ぎたら業病の発見が遅れたと同じで、取り返しのつかないものだ。語感がないと、周りの人との距離が測れなくて、自分のことばかり話す、戸を開けっ放しにするなど後始末ができない、人の前を横切る、人の話に割込むなどの洗練されない無作法な立居振舞と同じものを言葉の世界で余儀なくされる。自分が表現できない人はその原因にさかのぼると、これに行当たることが多い。言葉は家族の人間関係があなたを外の世界から守るようにあなたを守る。語感のない人の話や文章に接するのは、音痴の歌を聴いているようなものだ。敬語などの妙な使い方で、あなたの周りの人をまどわしてはいけません。
あなたが語感に気を配れば、あなたや周りの考える力を養うし、会話を楽しいものにする。■<022510>