「いまさら英語?」と言う人へ
なにがなんでも英語を身につけなければいけないと考えている人が多いのは、毎日の新聞の広告欄を見れば、これは少なくとももう50年以上続いているからわかる。他方、あまり目立たないが、英語なんか必要ないと考えている人も多いし、こちらも(当然ながら)50年以上続いている。
周りに年配の知人がふえる(または、知人が年配になる)に従って、こんどは「いまさら英語?(そんなもの必要ない)」と言う人もいて、このほうは「いまさら?」に重点があるようだから、これには英語ばかりか他のことにもあてはまるみたいだ。また、日本は有数の翻訳大国だから、価値ある情報はすべて日本語に翻訳されて手元に届くはずという考えにも時にはでくわす。本当だろうか?
今からざっと80年前に、作家で雑誌「文芸春秋」の創始者菊池寛が、当時の文学志願者に忠告を求められて、少なくとも一外国語を修得するようにと言い、それを「心掛け次第で明日からでも実行出来、実行した以上必ず実益がある、…」から、これが本当の助言だと認めた人がいた(新潮社篇「人生の鍛錬-小林秀雄の言葉」新潮新書)。これを文学志願者の枠をはずして考えるとどうなるか?私は「心掛け次第で明日からでも実行出来」るかどうかは別として「実行した以上必ず実益がある、…」方に共感を覚える。
私の取上げる外国語は英語だが、ここでは英語を学んで実益を得る方法や、それがいかに大変かには触れないでおく。そうしたことは、今すぐ書店に行けばいくらでもそれについて書いた手に入る。ここでは「実益」とは何かを考えて見よう。
外国語を身につける実益は、いわゆる便利さとは違う。訪問した国の言葉で、ホテルのフロント、乗り物の中、駅や空港で出発/到着時間や予約などのやり取りをしたり、レストランや買物する店でこちらの意志が通じさせたりするのは、つまりこちらが望む通りのサービスが受けられるのはよい。ただこれは便利の段階というもので、実益はいわばその背後にある。
実益は、その国や地域の風俗や習慣に根ざすものとしての言葉にいわば住み、その言葉で生きている人達の、切実な感情や考え方を知ることにある。日本人は蟲の音に何故あわれを感じるかは、日本語を知らなければ、まず知るところとはなるまい。いや、日本語を知らなければその手前の、蟲の音にあわれを感じるとこと自体さえ見逃す。こうした切実な感情や考え方を移植することは、翻訳と言う作業では困難。翻訳はわずかな便利さをもたらすに過ぎない。そうでもなければ、翻訳が新しくなっただけで、これまであまり省みられなかった外国の文学作品が急激に脚光を浴びることなどない。
先日ある席で、アメリカの高級紙の話が出た。ローカルニュースに視点が行きがちなアメリカの新聞の中で、他を圧する高級紙、いわゆるクオリティー・ペーパーと呼ばれる新聞の数は少なくない。地元に密着しながら、視点が世界に向いている「セントルイス・ポスト・ディスパッチ<St. Louis Post-Dispatch>」、「ミルウォーキー・ジャーナル<Milwaukee Journal Sentinel>」、「サンフランシスコ・クロニクル<San Francisco Chronicle>」、「フィラデルフィア・インクワイアラー<The Philadelphia Inquirer>」などの名前がすぐに思い浮かぶ。例えば、こうした新聞の論説を読み、そしてその背景にある、その国の人々の切実な感情や考え方について思いを巡らす楽しみは何物にも代えがたい一面を持っている。実際旅行先で、そのような新聞の論説に敬意を持って目を通すのは、その国を訪れる大きな愉しみのひとつである。こうした愉しみはそれがどこの国や地域の言葉であれ、外国語を修得することで確実に手に入れることができる実益と考えることができる。