日本にあふれるガッツ・ポーズ
横綱朝青龍が初場所の優勝を決めた瞬間に土俵上でガッツ・ポーズを見せたから、横綱審議会が「品格ゼロだ」と苦り切っている。角界には古来の伝統やしきたりがあるから、その内部では力士の位の上下に応じて、品格の評価があって当然だろう。しかし、本来それを報道だけすれば済むマスコミが騒ぎに同調しているのを見ると、連日新聞、ラジオ、テレビで品格のない報道を見せられている当方としては、どうかと思う。
今の日本にはあらゆる種類のガッツ・ポーズがあふれている、と実感するのは筆者だけだろうか?中でも昨今のいわゆる「ガッツ・ポーズ」は、これ見よがしの「勝者の驕り」に類するものが目立つ。意識の上での格差社会は、はるか以前から、この日本の社会に確実に進行している。
例えば、アメリカでアフリカ系の大統領が生れると、間髪を容れずといった呼吸で、自分は以前アメリカのシカゴ南部<の黒人地区>に住んだことがあり、赴任した(アメリカの)大学でも、黒人を重用したなどと、元有名大学総長で文部大臣経験者が名乗り出る。一旦不況の影が差すと、うちの会社も赤字です、人員削減です、生産調整ですと、金は儲けるだけで使い方を知らないサラリーマン上りの企業経営者たちが軒並みまくし立てる。ノーベル賞をもらって初めは斜に構えてつっけんどんな応対をしていた受賞者が、間もなく涙を流したり妙な軽口をたたいたりして、一人はしゃぐ。大学の入学試験に受かったぐらいで、白昼公衆の面前で胴上げされることを辞さない学生やら、新聞の随想欄(「随想欄)ですよ)に、自分はどこそこの国際会議に出たとか、著書が数十冊あるなどと、ただの自慢話を書く自称経済評論家。肝腎の噺の修行はそっちのけで、評論家めいた口調で高座から客に説教する噺家、「天才の育て方」などと、平然と子供自慢する有名人の親たち、政党の代表代行、私企業の名誉顧問、終身名誉相談役などと、どう見ても奇妙な肩書をもてあそぶ政財界人、インフレ気味の文学賞の受賞に有頂天になる小説家等々が、これでもかと出てくる。
その人の品格はふだん表に出ない。しかしそれは事に当って、つまりその人が何か言ったりしたりした途端に表に出て周りに意識される。これは供給が止まった途端に思い出される、電力会社やガス会社のサービス、鳴った途端にその人の趣味がわかる、ケータイの着信音みたいなものだ。ここでは品格が世の中を良くするなどと言っているのではない。品格を保つのは自分のためなのだ。「勝者の驕り」に類する行動の結果は、遅かれ早かれ、その人の生涯を、他ならぬその人にとって悲惨なものにする。
われわれの祖先は、だからふだんから心して事に当るようにと、躾としての自戒を強く求めた。こうした各々の自戒が、忍耐強さ、冷静さ、強い義務感、他人に対する思いやりなどの美徳を生み、育て、結果として日本人の生涯を輝かしいものにした。幕末に来日した一外国人は「ここには貧しさはあるが、悲惨さはない」と書残したという。
今日ではわれわれの生涯を輝かす品格が、とてつもない貴重品になっている。その必要を感じた人だけが、かなりの困難を感じながら自前で手に入れるしかない-ことを含めて。 ■