今、落語があぶない
「今、落語が面白い。(中略)その理由はどこにあるのか、私なりに考えてみた。(中略)何でも見えてしまう・見せてしまう時代だからこそ、言葉による想像がいま復権しているのではないかと感じる。(後略)」これはある新聞の夕刊のコラムにあった、65歳の女優さん(彼女の年齢はたまたま同じ夕刊の健康薬の広告で知りました)の一文から引いた。このような落語の本質を言い当てた卓見に接しても、今の私には寄席に行く勇気が湧かない。それは今、落語があぶないと見ているからで、今日はその理由を書いてみる*。
今、落語があぶないと見る第一は、高座で話す噺家の力が明らかに低下していると見るからだ。噺<古典とは言わない>の演目にはひとつひとつ筋があり、言葉遣いがあるから、噺家はそれに沿って演じお客に聞いてもらえばよい。それが噺なのだ。時代の移り変わりとともに、噺に出てくる古い言葉には消えていくものもあるが、それは説明するなり新しく言い換えればよい。
そして話す力が低下しているからか、噺家が筋をそっちのけにして落語を落語でなくしている。新聞の落語評に、「あまりにも饒舌」と遠慮がちに書いてあるのをよく見かける。少ない言葉で客に考える余地を与えるのは話す力だ。噺家の多くが不正確な言葉遣いで、とにかくよくしゃべる。話していないと不安なのだろう。オーディオで言うSN比が低い-低くすぎる。よく言えばサービス精神が旺盛なのだろう。
第二は噺の形、落語の正当な形が薄れているようだ。噺の導入を演者にも聞き手にも容易にするはずのマクラが役をなしていない。今は多くの噺家が開口一番自分のことをしゃべって、それがマクラと心得ているようだ。本題に関係ないことはマクラではない。「小言幸兵衛」では、なくて七癖の説明に自分が肺気腫になって入院した話なんかしている。「馬の田楽」では夫子自身が初めて馬を見た時のことなんか言っている。これはもう4、5年前だが、浅草の演芸場で前日お客と松戸にゴルフに行った話などを聞いた。
それが済むと、こんどは社会事件や時には政治時事問題と芸能界の噂だ。昔はこういう話しかできない噺家もいた。馬風にしても、三平にしても(何れも先代)、型破りな噺家は自分のこと、世間の噂をしゃべった。いまはみんな型破りになっているらしい。オーソドックスがあって初めて型破りの値打がでる。以前何故ストリップは亡びたかと話している席で、誰かが「日本中が日劇ミュージックホールになったからさ」と言った。噺家が揃って破調になったら落語は亡びる。
第三に日本語の多様さが正確に理解されない時代になっている。先日桂米丸師の新聞インタビューで、終戦直後の「京浜東北線」はガラが悪くて、つり革の取っ手やシートのカワを持って行くやつがいて…などと話しているのに、それを記録した記者が電車のシートの「革」と書いているのを見た。これなどは、饅頭の「皮」を知らない人が書いているとしか判断しようがないもので、日本語理解の劣化の現状を物語っている。
話ができないのは噺家が稽古しないからで、テレビで見た東京落語会でも噺が入っていない(ネタ卸が早すぎる?)から言いよどむ。まず稽古をしてほしい。本を出したり、テレビ・コマーシャルに出たりするのはそれからでよい。金を払って(と敢えて書きます)寄席に行って、はじめてから終りまで時事問題やタレントの噂話ばかりでは、満員電車のなかで週刊誌の中吊り広告を見上げているのと変らない。その噺家だって、週刊誌からネタを仕入れているんだから、話にならない。
余談だが、高座から客に説教したり、自分の噺を居眠りかなんかで聞かない客相手に喧嘩したりするような噺家は、収賄に手を出す政治家や、麻薬にはまる芸能人同様自壊する。
このままでは言葉による想像の復権はむつかしかろう。寄席に出かけて、昔の名人の面影を偲びながら高座を聞く勇気は私にはやはり湧かない。
*これを書く前に、最近の噺家を聞かずに書くのもどうかと思ったから、東京落語会のテレビの中継録画を四席<「小言幸兵衛」、「馬の田楽」、「茶金」、「浮世床」>聞いた。東京落語会は、歴史のある落語会で、噺家が緊張して出る会と以前聞いていたし、それに上の四演目は大ネタではないが、それなりに筋の通った演目で、噺家の力量が分る。■<301009>