とりあえず返事を
それが会社でも病院でも、組織に働く人々に向って挨拶は大事かと聞けば、イエスと答える。ところがそう答えた人が、ふだん「挨拶しない」または、「相手によっては挨拶する/しない」のが普通になっている。これはほぼどこの組織でも、毎年同じように繰り返されているあることがそのもとになっているらしい。
年度が代って新入社員を迎えた組織がまず教えるのは「お客さまにはご挨拶しましょう」、「社内の人達には挨拶しましょう」だ。新人はそのとおりにするから、4月はにぎやかだ。ところが数ヶ月もしないうちに静かになる。新人の挨拶が聞えなくなるから。そのわけは、新人に挨拶された先輩が挨拶を返さないからだ。こうして、新しく来た人々が先輩に挨拶しなくなるのは、その重要さの理解よりも、反応のなさが原因になっている。挨拶の重要さを知っていることにかけては先輩と同様だ。これが昂じて、組織の反応が鈍くなっている。
わが国の企業は身内に手厚いのに、外部の人間には冷淡だ。その代表が返事/反応である。日本経済の高度成長期、アメリカの大学がわが国の民間会社に高度成長の現状を調査したいと申入れても、多くの企業で梨のつぶてだったと聞いたことがある。それだけで、高度成長の国のイメージが変わったことだろう。これはいまでも続いている。従業員を募集しながら、応募した人に返事もしない企業が多いと聞く。人を粗末にする最近の風潮もさることながら、これではわが国が相手からの働きかけには返事する生活習慣を欠いた国であると誤解される。
相手からの働きかけに返事するのは礼儀の入口に当る行為だから、個人にも同じことが言える。その昔、某財閥の重鎮が身内の若者を定期的に自宅に招いては夕食を共にしながら四方山の話をした。そこに集る若者はその人の謦咳に接して多くを学んだのである。そうした折、帰宅したその人はまず書斎に行って、用事を済ませてからみなの待つ席に加わったと聞いた。その用事とは、その日自宅宛に来た手紙に返事を書くことである。その席に加わったそのかみのひとりは、子供の私に向って「どんな手紙にも、必ずすぐ返事を書くように」と繰返し教えた。家庭ばかりでなく、学校でも同じことを教えられた。小学校や中学で採点の終わったつづり方や試験の答案を先生が生徒一人ひとりの名前を呼んで返す。その時に当の生徒が返事しなかったら答案を渡さない先生が居られた。家庭ではない学校で、である。これなど、個人生活のレベルでできないことは公の場でもできる筈がないことを教えるしつけの見本だろう。
人の交流には、まず返事が重要だ。返事は反応(response) を指す、以前日本のいちばん大きな航空会社の客室乗務員が、客に呼ばれると「はい」と返事する代りに、誰もが判で捺したように「少々お待ちください」と言っていたのを思い出す。これなど、会社が教えているのだろうが、何故「はい」と言わないのか、それを教わっていないのは気の毒な話だ。
今の日本は、衣食足って久しいが、礼節を知るものなのか?相手に話しかけても反応が返ってこない世の中が味気ないものになって行くのを寂しい思いをして見ている人が存外多いのではないか。大部分の人にとって、毎日を意味あるものにするのは日々の小さな達成感に他ならない。それは、相手に声をかけたら返事が返って来るとか、挨拶して答礼されるような、それ自体は小さなものだ。
私はそうしたことが当り前にできるところにその組織や国の力が潜んでいると見ている。個人にとって日常の当り前のことが、官公庁や各種の法人、各民間企業、個人的なビジネスのなど、広く社会の仕組みに根を下ろしている国は、例えGDPがほどほどでも、強い国と見る。■<301109>