文は人なり
岩波文庫の巻末に載っている、あの有名な言葉のもじりでいえば「文章はその受け手に読まれることを欲す」となる。文章は書いた人に命を吹き込まれて、読まれたいと意思を持つ。
だから「文は人なり」という。文章には書いた人の人柄が映るし、文章を書かせればその人がわかるというほどの意味だろう。もっとも、この言葉が生れた時代が古いから「文」となっているが、現代では個人が自分の態度や動作、言葉や文章を使って、何をアウトプットするかでその人がわかる-ということになろう。心すべきことだ。また自分の周りの人々を、こうした目で見ることは、その人を知る上で大切だ。
人に読まれる文章とは、読み手が書き手の(社会的な)役割に持つイメージに合ったものであることを忘れてはならないと思う。報告書なら、報告した人の役割のイメージが読む方に伝わることだ。見舞い状なら見舞われる方に、見舞う人の(「見舞う」という役割の)イメージが伝わることだ。それがずれると、その文章が読まれないばかりか、相手から遠ざけられる。これは公共の場で電話している人を見るとき、その人の言葉遣いや態度が、その人の服装や持物と違う、横柄な、あるいは卑しいものなら、その外見とのギャップでうんざりさせられることを思い出せばすぐにわかるが、まあこれは余談として…。要するに、文章はそれを通して自分という人間が相手に、どのようにも理解されるものだということを、手紙一本書くときでも忘れてはならない。
文章には、書いた人がそこで何が言いたいのかが事実関係をもとに、わかり易い表現で明確に書かれているのがまず重要なのは言うまでもない。しかし大人の文章では、一歩進めて、その文を書いた人の、いわば心栄えが映っているものが、文章として洗練されているから読まれる*。
新聞や雑誌の有名人の書いた文章を読んでいると、残念だがその反対の例が目立つ。例えば、世間の役に立ち、影響力を持っている素晴らしいグループの業績を紹介していながら、おもむろに「私はそこの会長だが…」と書いてある。また外国の有名な学者の業績を紹介して「彼は私のXX大学留学時代のゼミナールの指導教授だった…」。有名企業の元役員が、当時の画期的な製品の発明や、生産工程の導入は「私が現役のときだった」と。また一度など、外務省の元高官が、自分がワシントン日本大使館に在勤中、当時の米国務次官補に寿司が食いたいと夜中に叩き起されて、その日の勤務を終った大使館の料理人を起してそれに応じたなどというのがあった。まあ、自慢話の類である。こうした文章に接すると、読んでいるほうは「おやおや、こうした人だったのか…」と、そこから先は読まないでやめる。これでは「文章はその受け手に読まれることを欲す」とすれば、随分と勿体ない話だ。それに、折角文章を書きながら、それだけしか話題が展開できないとすれば、その筆者を世間がどのように遇していたとしても、その人は貧しく、賎しい。
文章の中で読む人に知ってほしい事実関係を明確に書くことが大切なのは、上に書いたように言うまでもないが、文章はそれを読んだ人に、いわば文章の外で、何かを感じさせるものが書きたい。机に向って文章を書くときは、読み手に何を考えてほしいか、何を感じてほしいかを考えながら筆を執りたい。
*このサイトの「風報」は、できるだけこうした文章を集めようと考えて作りました。ご覧ください。