‘努力’の新しい形
若い世代の能力が低下して世の中が活力を失いつつある、と言う人がいる。その理由は彼らが昔の人達のしたような努力をしなくなったからだそうだ。
そういわれて周りを見回すと、個人が自分の欲望<望ましい状態>の水準をある程度にまで下げれば、格別の努力をしなくても、人並に暮すことができるようになったと認める人はふえている。このように多くの人が自分も人並みに暮すことができると感じられるようになったのは、一面から見れば、世の中が進歩した証拠だとわかる。
簡単には手にはいりにくいものを手に入れようと、あれこれしたのが昔の人達の努力だった<昔は簡単に手に入るものが、それほど少なかったのだ!>。それに、努力が自分の欲望<望ましい状態>を満たすためのものであることは今だって変りはないとは言うものの、それが昔のような「困難にあえて立向う」と言った、悲壮な外見を持たなくなっているのも確かだ。
このように見ると、昔風の額に汗する努力の分野に辛うじて残っているのは、リハビリテーション<病気や怪我で失った、生理、運動機能を回復するための>訓練だろう。これは流石に、努力する人とそうでない人の結果の差が大きく、それを見るとその人の「望ましい状態」の水準がわかる。
ただ、現代のいわゆる人並の暮らしは、その多くの部分が物質的な豊かさに負っているのが目立つ。何よりもそれを物語っているのは、誰もが気付いているように、もうかなり以前から、わが国の住宅や、冷蔵庫、テレビ、洗濯機といった各種の電器製品、それに電話、乗用車などの耐久消費財の普及率が、ほとんど問題にされなくなっている事実である。
一方、これ等に代って、自殺者数の累増、各種の家庭内暴力、家族の対話不足、分離や離散、不登校児童数の増加、職場での精神障害者数の増加、職場放棄とひきこもりなどに起因する、いわゆる社会不安が増え続けている。こうしたことへの対応策を書いた本が書店にあふれ、ラジオやテレビの番組にこうした内容がしばしば取上げられている。それでもまだ、自殺者でさえも<ことに経済不況が騒がれる昨今では>、一般には生活苦がその原因の大半を占めているように理解されがちだ。
ただここでは、何が満足した生活をもたらすかではなくて、物質的な豊かさが現代人の不安の解消に役立っていないと言うにとどめる。
生活が進化すれば、それに伴って不安が生れる。町に信号機が導入された頃、それに伴う生活のストレスは増えた。だから、おそらくいま必要なのは、われわれの生活の進化に応じて生れた、望ましい状態への新しい努力の分野に目を向けることだろう。
繰り返して言えば、努力とは額に汗すること、いやなことを耐え忍ぶばかりではなくなっている。だから新しい世代には、努力をそうした形や悲壮な外見で伝えないで、努力した結果、手に入るものは何なのかで示せばよい。
でも、ここではそうした努力をみんなにしろと言ってはいない。21世紀の今日では、努力も個人の選択肢の一つなのである。だから、ロボットとの対話で、孤独の不安から逃れる人がいてもよい。■