勤勉の復権
いつの時代にも人々は満足を求めてやまないが、昨今は個人が何かを自分の手に入れることで満足しようとする時代に見える。老若男女の多くが、口を開けば「~がほしい」と言う。これほど大勢の人々が何かをほしいと口に出して言う時代は以前あったのだろうか?しばらく前に、小学生が「睡眠時間がほしい」と言ったと報道された(!)ところを見ると、現代人はおそらく有史以来はじめてという感じで、何かを手に入れることの満足を追い求めているありさまだ。ここでは手に入れたいと思うものが「感動」でも、「お金」や「恋人」でも、「安心」や「ゆとり」でも、ほしいもののよしあしは別に、それが手に入れば当人は満足すると考えて話を前に進めよう*。
いま見たように、口を開けば「~がほしい」と言う人がこれだけ多いのだから、たとえ口に出さなくとも、それを確実に手に入れるためにはどうしたらよいかと真剣に考えている人を入れると、数はもっと多いことだろう。とすれば、ほしいものを手に入れることを確実にする生活態度とは何かが見直されてよいことになる。
ほしいものを手に入れるために、ほしいもののよしあしは別に、それに向って行動するのが現代の勤勉だ。「勤勉」という言葉は、一体いまの人にどのように受け止められているのだろう。親しい周りの5人に「『勤勉』という言葉に、あなたの持つイメージは?」と聞いてみた。すると、若い人(50歳以下)は、「わからない/表現しにくい」。団塊の世代など、60歳までは「食うため/生きるために真面目に働くこと」。もっと上の世代からは「食うため/生きるためにあくせく働くこと」というイメージが返ってくる。こうした反応は、それぞれの世代が過ごして来た時代によるものだろうけれど、全体にあまり好意的な反応とは言えない。
どうだろう?「勤勉」が、仮に復権するとしたら、現代の勤勉は自分のためのもの、自分を動きやすくするためのものと功利的に見ては。つまり、勤勉とは計画したことを実行する、または逆に見て、実行とは自分の計画したことをすること、と考えては。
計画することは、誰にでもできる。朝起きたときに、今日一日のことを思い浮かべない人はいないだろうから、それでよい。少なくとも初めは、朝起きてから夜寝るまでに自分のすることを大まかに思い浮かべて、それを計画と考えて、思ったとおりにやればよい。
勤勉、つまり計画して行動することの利点はどこにあるか?それは、一日の終りに、その日に何をやったかばかりでなく、それを何故やったかがわかるところにある。そうすれば、一日を闇雲に過ごして「今日も一日終ったか…」という感慨は不要になる。するとおまけに、大体その場で「明日は何を/どうしようか…」となる。このように勤勉とは単に「計画したことを(だいたい)そのとおりに実行する」こと(を続けること)だと思う。その通り-「単に」である。
これまでは「計画」より「実行」が重んじられた。「計画倒れ」となると、“実行”(の仕方)が悪いと責められた。でも本当だろうか?実際には、計画が悪いために実行できなかったほうが多いのではないか?計画がないと土台人は動けないから。歴史の上でも、挫折や失敗は計画のない、または計画の無理なところに生まれた。
勤勉に重要な一面は、「時間をとって計画する」または「何があっても計画に時間を使う」ことにある。計画には大きな許容度(だいたいそのとおりに実行する)があってよいが、計画して暮すのが勤勉な人のやり方だろう。計画して暮すことには、生活のために働くことも入っているから、「計画する」ことの重要さを見直したい。
世の中が複雑になって先の見通しが立てにくいからと、計画が過小評価されてはならない。なぜなら、計画はそれを立てると、個人の欲求から生まれたことに結果をもたらす**。それはまた、結果への道筋を示し、それに従えば、そこに確実に運んでくれる。
勤勉な人は優れた計画能力を持っていると言われる。勤勉な人は、やる気よりも計画力が(やる気を生むから)大切-と考える。計画をたてて実行できないのは計画に問題がある(やる気を生まないから)-と考える。つまり「計画がすべて」ではないのだ。計画べたはそのへんにひっかかる。計画は正確でなければならない、必ず実行されねばならない-と考える。でも、Plan is not so much important as planning.(W.チャーチル) <「『計画』よりも『計画すること』がはるかに重要-という意味>なのだ。
私は、はじめは計画をいい加減でもよいから、とにかく立ててごらんなさい。そうすれば、いつの間にか、実行できる計画を立てるようになる-と言いたい。
* 現代人のほしいもののよしあしや、計画の的が定まっていることの大切さは、また別の折に。
**BITS & PIECES欄:ジョージ・バーナード・ショウの言葉参照。