人を育てる
1928年生れのアメリカのピアニストL.フライシャーは演奏家としての最盛期<ブラームス第一協奏曲のエピック盤などは記憶に生々しい>に、筋肉が収縮すると言う奇病(ジストニア)に侵され、爾後40年間機能回復に努めた結果、カムバックして人々を驚かせた。その彼が昨年末の日本演奏旅行の途次、後進のためのワークショップを開いたと紹介する記事に「演奏家の質は舞台だけでなく、教育を通して次世代に何を伝えるかによっても評価される」(2010年1月10日「朝日」3版)とあるのを見て同感した。そして今日この「評価される質」は、どの分野の指導者にも当てはまると改めて感じる。
製造・サービスなどの営利企業、病院、家庭、同業集団、スポーツ・チーム、学校、宗教団体、組合、芸能の流派など、長い歴史を持つ集団はその中に人を育てるシステム、約束事、ルール、決まりを持っている。一般にも、組織の活動が永続きするためには、そこのリーダーが意識して人を育てるかどうかがもはや不可欠のものとなっている。しばらく前から、経営の世界でも環境問題に倣って、どうしたら組織の活動を長続きさせることができるかを”sustainability”と言う言葉で取上げている。世の中の変化が高速化し、また複雑になった分だけ、これまでよりも真剣に組織の永続策を考える必要が出てきたのだろう。多くの中小企業/家業が「後継者難」で消えてゆくのを見ても、組織の自然消滅を避けるためには人の要素が大きいのがわかる。
自分の周りに人を育てることを常に念頭に置いて動く人は、固有の肩書はなくとも、その組織の本来のリーダーと見なすことができる。今日ではそれが上で触れた「評価される質」だからだ。だからこの人は、そうした自分の考えを実行することで、組織ばかりでなく、その組織に自分自身の存在を何時までもsustain することになる。
いま仮に経営者が教育者を意図する場合を考えると、まずその経営者の日常の「容=かたち」<立居振舞い、姿勢(posture)、挙措動作>、つまりふだん回りの人々とどのように接するかが重要なことがわかる。
それは自分の企業/職場に、製造の現場には今でも頑としてある、階級を作らないことである。それはまた、自分と部下が接する環境をふだんから多く作ることである。大企業幹部の事業所回りも、より多くの平社員に接することを心がけると「よきに計らえ」式の「大名行列」にならなくて済む。それはまた、自分のやっていることが誰の目からもわかるようにすることである。どこに出掛けて、何時頃帰るかでさえはっきりさせることである<これの副産物は急な頼まれごとを威勢よく断れることだろう>。それはまた、「如何に/どのように」やるかよりも、「なぜ」やるかと見方/考え方を伝えることである。それはまた、何ごとも特別扱い/特別視せず、当り前(のように)に扱うことである。「これは大事だ」とか、「特別なことだ」などと言わないが、だからと言って、ものごとを軽視することではない。
人を育てる以外の、例えばその集団に必要な個々の技術を伝えることは経営者でなくともできる人が周りに沢山いるはずだ。経営者は自分の身につけた考え方、見方を教える。できるだけ大勢の相手に一緒に考えさせるとよい。訓練(drill)だから、同じことを何回言っても「この前言った」などと考えない。「何度も同じことを言う」のは、経営者の特権と考えてよい。また世にいう「させてみる」は、その場でしなくとも目を離さないで見ていればわかる。その代り自分の言ったことをやったら、その相手にはやったことをすぐその場で「できた」と指摘して「お返し」する。自分の言ったことをやらなかったら、何も言わず、できるまで同じことを何度でも言う。
近頃は音楽祭でもスポーツ大会でも、メインの行事の後に広く参加者を募って、能力向上のワークショップをする所がふえていることは喜ばしい。■<012510>