環境問題の行方
洞爺湖サミットのメインテーマが環境問題だからと、主催国の日本では、ついこの間まで朝野をあげて環境問題一色だった。「朝野をあげて」はマスコミの騒ぎだ。「いまや、あらゆる経済活動は、環境問題の解決の前提なしには考えられない」などと書いた新聞のコラムを読むと、ほとんど戦時の叫びに似てゾッとした人も多いことだろう。意地の悪い見方をすれば、この機に乗じてか気息奄々の電機メーカーが、太陽電池のような夢の商品を近く完成すると報じられたりした。
ただ「叱られる」ことを覚悟で言えば、今は環境問題どころではないと言うのが生活者の実感であろう。日々の生活を苦しめる原油や食料価格の高騰に目がいっている一般消費者は、何年も先の地球環境がどうといわれたところで、ちょうど喫煙者がたばこを吸うと寿命を縮めますよといわれても応えないようなものだ。それに出てくる案が、二酸化炭素の排出量を売買するなどの弥縫的な解決策では、そこまで目の届かない国々の反対に会うから、地球は守れない。
身近に考えれば、環境(を改善する)問題とは、個々人のライフスタイルを変えることにつながって、はじめて現実味を帯びる。それは「暑ければ窓を開けて」とコラムに書くのは易しいが、本当に窓を開けることができるかどうかの(だけの)問題である。「窓を開けることがよいことなのだ」と、そこに余り目くじらを立てると、話は必然的にちょっとした事件に先を争ってヘリコプターを飛ばしたり、山間僻地に中継車を送り込んでいわゆる「現地中継」で資源を浪費したりしているマスコミ各社の社員が、冷房の効いた建物でコラムを書いていたのでは始まらない。マスコミ各社は、経営者を含むいわゆる「会社ぐるみ」で、競争の姿勢を見直してほしい-と言うレベルになってしまうのである。
環境への働きかけ/対応のスピードは日常生活の産物*だから、どうしてもマイルドでスローな側面が求められる。他のものと違って、いわゆる環境問題の克服は英雄的な側面に乏しいし、結果のすぐ出る短期間のいわゆるキャンペーンの対象になりにくい。つまり、生活者に節倹節約の意志や意識があるのかどうかの問題よりも、ライフスタイルを変える意志があるかどうかの問題になる。例えば、コンビニの深夜営業は環境問題からでなく最大多数の最大幸福に必要かどうかの観点から論じられたほうが、解りやすく説得性もうまれる。そこでは、肥大する物質的な欲望から私たちの身をいかに守るかなど、自身のこれまでとは少し異る、生活習慣を涵養<水や肥料を与え、陽の光に当てるなど、植物のようにゆっくり育てる>して行く以外ないようだ。生活習慣を養うのは長期の問題で、質が求められるから、結局は教育の役割に帰着する。こう考えて、環境問題は広い意味での教育の問題として取組むのが大切で、例えば、原油高に端を発する諸物価の値上がりのような焦眉の問題に、不必要なことはしない、不要なものは使わないなどの生活習慣の問題とを並存して考える方法を学ぶことが必要になる。
*「自然とは、それに従うことでのみ征服される」とは、F. ベーコンの言葉だという。