使い分ける工夫
われわれの技術も物の考え方も絶えず進化しているから、道具としてのハード・ウェアもソフト・ウェアも新しいものが次々に出てくる。それらは毎日の生活を変え、しかも加速度的に変え続ける。変化に合わせるのは大体骨が折れることが多い。21世紀の我々は、どうもそうした変化に試されているようだ。
新しいものにすぐ飛びつかなくてもよい、といって、古いものにだけしがみついていたのでは、思わぬ無駄を強いられることになる。でも、現に私たちの身の回りには多くの場合、これまで使っていた、いわば古いものと、新しいものの両方のあるのが目につくから、そのどちらかだけを使わないで、それぞれの利点を使い分ける工夫をすれば、道具がほんとうの意味で人の役に立つ。つまり、人が道具に使われることがなくて済む。
道具を使い分けると考えると、これを読んでいる誰もがすぐ思い浮かぶものに、外国語の辞書がある。いまや外国語の辞書は従来の紙の辞書でなく電子辞書全盛で、その理由は専ら意味を知りたいと思う単語に早く行き着ける利便性にあるようだ。英語を例にとれば、電子辞書で英単語の意味を引く場合、(何も考えずに!)目の前の文字の組み合せをそのまま電子辞書に入力すれば、その語とその意味が即座に画面に現れる。従来の紙の辞書のように、アルファベットの組合せ考えながら、その語に行き着く必要はない。でもその語に早く行き着くことと、その語の意味を早く手に入れることとは話が別になる。単語によっては、ひとつで多くの意味を持つものがあるから、折角早くその言葉に行き着いても、小さなディスプレイではすべての意味や用例を短時間で一覧することは難しいから、画面を行きつ戻りつして、適正な訳語を探す。そこでに紙の辞書の出番が来る。紙の辞書はページを開けば、それが何ページに亙っていても、電子辞書に比べて短時間で一覧することができるから、使われることの少ないその語の意味や用例に行き着くことは、電子辞書に比べて容易である。こうして電子辞書と従来の紙の辞書とを、使い分けると便利と感ずることが多い。私は最近(とは今朝)、stultifyやreclusiveなどの語は電子辞書を使って、また同じ資料に使われている、account、art、 engagementなどの語は紙の辞書で、そこに使われている限られた意味を知った。
もうひとつ、場所も私たちが自分で使い分けることのできる道具と考えて良いものだろう。生活の幅が広がるにつれて、人はいろいろな場所を使って毎日を暮す。つまりいろいろな場所に出没することになるから、ある目的のためにそれぞれの場所を使い分ける工夫ができる。本を読むという行為を例にすると、それぞれの時間の長さや集中度合いに従って、それぞれの場所で本を読むことができる。例えば乗り物の中では、何よりも内容に惹かれるものを楽しめる。計画的に読みたいものは、時には辞書などの大部な資料が必要だから、自室や図書館、研究室などで。居間などは食後のくつろいだ気持ちで、最も好きで、時には懐しい作品に目を通すのに適しているだろう。また、声に出してその内容を味わいたいものを取上げるのは、周りからほどよく隔離された場所に限られるだろうし、どこかで人と待合せる時には、ファイルにたまった新聞雑誌の切抜きや、贈られた資料を持って少し早目に出ても、そこで相手を待つことが、少しも苦にならない。
こうして考えると私たちの回りには、ケータイ電話と定置型電話、新聞やラジオとテレビ、現金とクレジット・カード、電子メールと郵便、自転車や自家用車と公共の乗物、クーラーと団扇、ソロバンと電卓、図書館の蔵書と個人蔵書、一括払いと割賦、メールオーダーと店買いなど、ちょっと考えても、使い分ける工夫のできるものが山ほどあることがわかる。
このように考えると、私たちの毎日の生活は何とスリルに富んだ刺激的なものなのだろう。だから、世の中がこうした使い分ける工夫にもっと寛大になってほしいと願うのは、私だけだろうか?