感覚の値打ち
バラク・オバマ大統領「今日まで、自分としてはこの問題について公には発言を控えてきました。それはあなたが『トラスト・ミー』と言ったからです。あなたの言葉を信じて来たからです。ただ、これ以上解決を長引かせるわけにはいきません。日米のみならず、周辺の国々もこの状態を懸念し始めています。そのことを理解して頂きたいのです」。新聞はこれを2010年4月12日、ワシントンで行われた核保安サミットの晩餐会の席でのできごととして伝えた。<『朝日』14版朝刊(6月2日付)>。これ以前に報じられた、晩餐会直後の前首相の談話「(オバマ大統領から)一定の理解は得られたと思う」を思い出すと、私たちは改めて「こういう感覚の持主が…」と驚かざるを得ない。
こういう報道もあった。「今日9時から鳩山内閣としての最後の閣議があった。鳩山首相から小さなメモをいただいた。『日米、日中、日韓、よろしくお願い申し上げます』と書かれていた」<菅氏の(民主党代表を目指す)政権演説(要旨)。『朝日』14版朝刊(6月4日付)>。われわれはこの程度の安全保障感覚の人が国政の衝に当っていたとは…と、ここでも驚かねばならない。
ある種の感覚が一国や組織を代表する人に欠けていると、人々の士気<やる気と言ってもよい>を低下させて、その国や組織の将来を危うくする。<国や組織は人の身体同様に有機体ですから、一箇所が悪くなると途端に、全体への影響が避けられないものになります>。これは同じことが家族を代表する人にも起こるから、個人もこの感覚を備えることが望ましい。この感覚の源は、自分自身と周りで起こることとの距離を鋭敏に測る能力にある。それができないと、どのような地位や職業についていても、その人のキャリアは惨めになる。その端的なものが言語表現だろう。これまでの社会的な地位さえあれば、その人の大抵の挙措は周りがとりなしたり、ごまかしたりの時代はとうに過ぎて、情報化時代の今日、その場で発せられる談話は、そのまま本人の感覚を映し出す。はるか以前から、こうした感覚を備えることがリーダーに欠かせぬ条件の時代になっているのだ。
公党を呼ぶのに「さん」づけしたり、自分の行為を「~させていただく」と言ったりと迂遠な表現で、一見して相手との距離を必要以上に取っているかに見えた前首相は、その辞任の言葉で「国民が私の言うことを聞く耳を持たない」と話した。これを聞いて耳を疑った人は少なくないはずだ。この表現は、世間では相手に対する非難だ。それまで散々「申し訳ない」、「陳謝する」などと言った当の本人がこうしたことを言うのはいわゆる「イタチの最後っ屁」か、と一瞬思わせたが、そうした人の多くが次の瞬間、そうではなく言葉に対する感覚のない、つまり国民との距離の測れない人の発言なのだと気付いた。
われわれは、時代の経済的混乱にばかり目を向けずに、そうしたことの一因をなしている、国民の士気の低下を招いた複数の政治家の時代をもっと記憶すべきだろう。■<062510>